2010/09
蘭学者城主 朽木昌綱君川 治


 
 城の前庭には初代朽木稙昌を奉る朝暉神社があり、その前に第8代の蘭学者城主朽木昌綱顕彰碑がある。
 福知山は丹後、丹波、但馬の中核の地で商業・交易も盛んな町であった。これを支えたのが由良川で、城下町は福知山城と由良川との間に造られた。この由良川は福知山の街を何度も洪水で洗い、壊滅状態に陥れた。川の畔に「治水記念館」がある。
 治水記念館の少し先に朽木家の菩提寺久昌寺がある。曹洞宗の立派な寺院だが、朽木家の墓地は旧藩主のものとは思えない状況だった。朽木昌綱も忘れられた蘭学者である。
 4月のある日、大阪から丹波路快速に乗って篠山口まで行き、乗り換えて福知山へ約2時間の、のんびりした旅に出かけた。福知山は初めて訪問する街で楽しみである。駅前の観光協会で福知山散策の地図を貰い、先ずは福知山城に向けて歩いた。
 福知山城は戦国武将明智光秀の築城であるが、その後杉原氏、小野木氏、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏と一代城主が続き、8代朽木稙昌より明治維新まで代々、朽木氏が治めた。
 朽木昌綱は1750年に江戸で生まれて江戸育ち。1787年に城主になるが、40歳になるまで福知山に入ることなく江戸で蘭学を学んでいた。蘭学者としてはあまり認知されていないが、調べてみるとなかなか凄い経歴を持つ。前野良沢に蘭学を学び、交友関係には杉田玄白、大槻玄沢、中川淳庵、桂川甫周、宇田川玄随、司馬江漢などがいる。
 蘭学者としての朽木昌綱は貨幣の収集と研究に勤しんだが、この貨幣は海外の貨幣まで及んでいる。彼が研究成果をまとめた本(とその時の年齢)は、新撰銭譜(32才)、増補改正孔方図鑑(34才)、増補改正珍貨孔方図鑑(35才)、西洋銭譜(38才)、泉貨分量考(41才)、弄銭奇鑑(47才)、和漢古今泉貨鑑(49才)など多くあり、しかも城主になって後も続いている。昌綱は外貨の研究によりその国の造幣技術を知り、更に経済状況まで研究したと云われている。
 次が世界地理の研究である。この分野でも著作がある。40才の時に出版したのが「泰西與地全図」全6冊17巻である。巻1がヨーロッパの風土、人口、言語、巻2〜14がポルトガル、フランス、ドイツ、イギリスなど14カ国の地勢、国情、巻15が地球全図、国別地図、巻16が都市図、巻17が各国の紋章である。
 朽木昌綱が海外事情の調査ができたのは、オランダ語に精通していたことによる。蘭学を学んだ医者や学者たちでも、オランダ語の読み書きができる人は少なかったが、昌綱は前野良沢にオランダ語を学び、江戸参府のオランダ商館長ティチングとの文通で読み書きを習得した。昌綱31才、ティチング36才の時だ。
 ティチングは商館長を3年8ヶ月勤めてインドのベンガル長官に転勤する。その後バタビア、清国大使を務めて晩年はオランダに戻るという海外通である。昌綱はティチング宛てに手紙を2通送り、一通は添削して返してもらってオランダ語を勉強した。二人は江戸で2回会っただけなのに、お互いに意気投合し、情報交換と物々交換を続けた。昌綱の外貨コレクションや世界地図などはティチングから入手したものが多かった。
 福知山城は郷土資料館となっており、朽木氏時代の展示コーナーがある。ここに朽木昌綱の古銭研究の本が展示してあったが、残念ながら古銭コレクションの展示はなかった。朽木昌綱が序文を書いてサインした、大槻玄沢の「蘭学階梯」も展示してあった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)





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